2017年11月10日金曜日

神によって変えられる

もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(ローマの信徒への手紙11・15〜16)

  10月31日は何の日でしょうか。このように問うたならば、これをお読みのみなさんはおそらく迷うことなく「宗教改革記念日」と答えることでしょう。特に 今年は500年目という記念の時であり、今月23日には長崎でカトリックと合同で記念礼拝も行われます。ただしかし、世間の人々に同じ質問をしたら、十中 八九、いや100人に99人は「ハロウィン」と答えることでしょう。
 近年では日本でも盛んで、子どもや若者が仮装を楽しんでいます。これ は元々はケルト(ヨーロッパ)の新年のお祭りに由来して……という説明はしばしば耳にしますが、それだけでなく、そこにキリスト教も深く関係しているとい うことは、あまり教会の中でも知られていないのではないかと思います。

 ケルトの暦では10月31日は大晦日で、そ の夜は地獄の釜の蓋が開き、悪霊や先祖の霊がこの世に溢れると信じられていました。先祖の霊ならば歓迎しそうなものですが、もし境目が閉じてしまったらこ の世で悪霊化してしまう為、篝火を焚いたり恐ろしい格好をしたりして悪霊も先祖の霊もあの世に追い返すということが行われていました。この「サウィン祭 (死神祭)」が、今日のハロウィンの仮装の元となっています。恐ろしい扮装は、本来は言わば戦装束であったのです。


  しかし、キリスト教の伝来により、この行事は大きく変化します。死者の祭りがその時期に行われるということは変わりませんでした。むしろ、その点ではキリ スト教の側が影響を受け、元々は5月に行われていた死者の礼拝が11月に行われるようになります。今私達の教会の暦で11月に召天者記念礼拝を行うのはそ の為です。変わったのは、死者との関わり方です。サウィン祭においては、先祖の霊は恐怖の対象であり追い払うべきものでした。しかし、聖書の教えにより、 私達には永遠の命が与えられており、死者もまた神様の愛を受け、共に同じ主の平安の内にあることを知ります。死者の祭りは、生きる者も召された者も共に唯 一なる主の元にある、その喜びを知る時となったのです。死者を覚えるという出来事は同じでも、キリストの教えにより、その在り方、意味するところは180 度変わりました。そこには不安や争いではなく、平安と喜びが与えられることとなりました。恐怖のサウィン祭は過ぎ去り、希望と安らぎに溢れる召天者記念の 時が与えられたのでした。

 ところで、キリスト教では死者を弔う日の事を「諸聖人の日」(All Hallows Day)と呼びます(謂れは先月号の鈴木先生の記事をお読みください)。そしてこの記念日は、クリスマスと同じように、前日の日没から祝われたそうです。 Hallows dayのEvening、Hallows’een。これが「ハロウィン」となるのです。
 神様の働きにより、恐ろしいサウィン祭は、喜びのハロウィンに変わりました。恐怖や不安を前にしても、たとえ死という恐ろしい出来事と向き合う時であっても、神様が共にいてくださる時、そこには喜びが溢れてゆくのです。

 さて、今年は宗教改革500年という年です。この宗教改革という出来事も、100年前と今では、大きく意味を変えています。100年前は、カトリック教会とプロテスタント教会の分裂の象徴でもありました。
 しかし今、カトリックと合同で、この宗教改革を覚える礼拝が行われるところまで来ています。そこには確かに、和解させてくださる神様の力が働いています。神様の力は、世界に働き、歴史に働き、今を生きる私達にも働いています。

  神様の恵みによって、世界は、私達の在り方は、大きく変化してゆきます。不安や争いが取り払われ、安らぎと喜びが満ちあふれてゆくのです。死者の記念日が 恐怖ではなく喜びの時となったように、宗教改革が争いではなく和解の象徴となったように、神様は私達の人生の只中にも働き、私達にまことの平安を満たして くださるのです。

 日本福音ルーテル久留米教会、田主丸教会、大牟田教会 牧師 宮川幸祐

「絶えず新たに開始する教会」



「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」  (テモテへの手紙二 3・15)

「牧師は総辞職せよ」。私の人生で衝撃を受けた言葉の一つです。
 事務局勤務だった頃、日本キリスト教連合会主催の宣教講演会に出席しました。講師は牧師、宣教師、信徒(ビジネスマン)が集まり、福音宣教の拡大を目指しキリスト者の人口比1%越えを目指している信徒リーダー達でした。テーマは「日本のキリスト教界の現状と展望」。副題に(エリヤのように、私は変わる、あなたも変わる、日本が変わる)、ユニークで力強い講演でした。
 その中で「牧師は総辞職せよ」と提言されたのです。この百年いまだ人口の1%以下しかキリスト者になってない状況の責任は牧師にある。「牧師は、戦後の働きを自ら深思し、先ず一度、総辞職せよ」と言われたのです。業績をあげられないなら会社ではクビなのですとも。教会と会社は違うという意見もありますが、真摯に受けとめようと思いました。

 教会、牧師信徒は、宣教に本気で取り組んでいるか。人々に届くキリストのみ言葉を語っているか。そのために努力し、創意工夫しているか。どうせ1%だからとあきらめてないか。教会の維持、内向的なことばかりになってないか。全世界に福音を宣べ伝えているか。聖書を読んでいるか。かなりチャレンジを受けました。

 その時、大切なことは「ミッション」であると教えられました。使命です。遣わされた教会が、何を神様から与えられたミッションにするか。それで教会も牧師信徒も変わってくる。そのミッションを「最優先事項(トップ・プライオリティー)にする」こと。神様から与えられた私の使命は何か。それが分かれば、今やるべきことは見えてきます。他のすべてのことを停止してでも、その一時に集中する。それが最優先事項という意味です。その一時を聖書の中から見つけることです。
 そこでルターの『キリスト者の自由』を読んでいます。教会の信徒の願いで、しぶしぶ読みはじめたというのが本音です。読み進めていくうちに、ぐんぐん引き寄せられ、毎週1回の読書会が待ち遠しいです。教会の生きた現場で読みました。
 ルターの言葉で衝撃を受けた言葉を一つ。「使徒はキリスト者に対し、目覚めよ、と言って、勧めている。なぜなら彼らは目覚めていないならキリスト者ではなく、神の道に立ち止まっていることは後退していることだからである。前進するとは、つまり絶えず新たに開始することである」という言葉です。

 キリスト者に大切なのは過去ではなく、今どうするかです。昔はということは、キリストの前からだんだん後退していることです。自分に出来ることを何かひとつでも絶えず新たに始めることです。教会の宣教のために祈ることもまた、新たに自分が開始することなのです。
 宣教の現場に戻って新しいことをたくさん始めました。中高生がいる教会、楽しい教会、人が絶えず溢れる教会、未来にむけて成長する教会を目指しました。まず教会集会室をカフェスペースに。扉は24時間オープン。様々な楽しいカフェ企画。毎日の朝礼拝。礼拝堂を聖なる空間に変える。礼拝に来られる方が毎週何か変わっていると言われます。絶えず新しく始まっている教会でありつづけました。とにかく外へ向けての宣教を最優先事項にしてきました。結果はどうぞ大江教会にいらしてください。

 しかし、一番大切にしたのは「み言葉」と「祈り」です。宗教改革500年にむけて何をするか。まずは「聖書のみ」に立ちました。礼拝堂にある講壇用聖書の通読を始め、3年間で3回の通読。毎日3章ずつ礼拝堂で読み続けています。まもなく3回目が終了します。さらに礼拝堂で祈る。毎日誰かが礼拝堂で祈る。これだけのことで教会は改革されていくのです。物置状態であった礼拝堂が聖なる空間となります。

 宗教改革500年の10月をむかえました。私たちの教会にとっては501年が大切です。記念とならないように。そして「絶えず新たに開始する教会」でありたい。それぞれのミッションに従って。

日本福音ルーテル大江教会、鹿児島教会、阿久根教会 牧師 立野泰博

神によって変えられる

もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(ローマの信徒への手紙11・15〜16)   10月31日は何の日...