2017年8月31日木曜日

「安心して水の上を歩く」

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」  (マタイによる福音書14・22~33)     



 この夏、まるでSF小説のような警告が人類に向けて発せられた。「いずれ地球の気温は250度まで上昇し硫酸の雨が降る。地球温暖化は後戻りできない転換点に近づいている」。著名な理論物理学者スティーブン・ホーキング博士はそう指摘し、「第2の地球」となる他の惑星への移住を提案した。


 そう言えばもう30年近く前に、温室効果ガスに適切に対処しなければ、その行先は地球の金星化だというようなエッセイを読んだ。しかし、まだその頃は昨今のような暑さの高まりや気象の熾烈化はなかった。
 しかし、今は違う。確実に地球表面と地球全体の温度が連動してどんどん暑くなっていることが確認されたという調査結果がでた。1000年先と言わず100年先、いや10年先を思うだけで、なんだか目がくらむような気さえする。


 「人間の生というものには、たとえ原水爆で滅びるというように、ある時滅びるということがあっても、あるいは地球に寿命がくるということがあっても、確かな基礎があるんだということ、本当に実在する永遠の命の現れとして、人生というものはちゃんとあるんだということ、そういうことが事実なんですね。そういうことだから、水の上を歩くどころではないんです。・・・誤魔化さないで、自己欺瞞をやらないで、落ち着いて安らかな心で元気を失わないで暮すということは、これは本当に驚くべき奇跡と言っていいようなことですね。」
 この言葉は滝沢克己さんの『聖書を読む』の一節だ。主イエスが水の上を歩かれたこの聖書の箇所を引きながら、まったく神の愛の証しであるこの星で、人類が歴史を刻んでこられたのは、水の上を歩くどころではない奇跡であって、神の恵みそのものだという滝沢さんのこの言葉にはっとさせられる。


 この物語は、多くの場合、教会に関する教えとして語られてきたと言われる。古い教会の天上を見上げると、その梁は船底のようになっている。これは教会がこの世を行く舟であることを象徴している。「主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に行かせた」とあるように、主に招かれて、私たちは「舟」に乗り向こう岸へ向かう。向こう岸とは、この世界で主が私たちのために定められた目的地と言えるかもしれない。神の国と言っていいと思う。主のご命令ならば、きっと「向こう岸」に達すると確信していいのだが、ほどなく「舟」は逆風に襲われる。「逆風」は教会が忍耐強く戦い続けなければならない私たちの罪の現実、宣教のさまざまな困難、神に逆らう混沌の象徴と言えるだろう。


 弟子たちは主イエスからちょっと目を離すと、たちまち沈んでしまう。そして、主にもう一度助けられて、主に捕まえられて、やっと舟に乗った。主が舟に乗られると、嵐は静まった。主の教会は主イエスを置き去りにして、弟子たちが勝手に振る舞うとき、もはや平安な航海ができないという教えだと受け止めることができる。
 また、この物語は私たちを生涯を通して支え続けてくれるとのメッセージでもある。自然災害や事故のとき、病苦や死別、失意のとき、さまざまな人生の「逆風」が吹き荒れ、怒涛逆巻くとき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とのみ声に、私たちはどれほど励まされ続けることだろうか。私たちは土の塵で作られた。水の上では沈むというのが当然なのに、その私たちが沈みもせずに、こうして生かされているということは、恵み以外にはありえない。まるで水の上を歩くような奇跡なのではないか。


 神の愛の証であるこの星の自然破壊が進んでいるという。もう、待ったなしなのかもしれない。しかし、私たちは主の永遠の命という確かな拠りどころを持って、安心して水の上を歩かせていただいている。
日本福音ルーテル小田原教会、湯河原教会 牧師 岡村博雅

2017年8月3日木曜日

「すべてをご存じの方に」



「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ福音書6・31〜33)

イエスさまが山上で語られた説教です。ここでイエスさまは、何度も「思い悩むな」と言われます。イエスさまの説教を聞いていたのは弟子たちであり、また群衆でした。彼らは、みな思い悩む者たちです。日々の生活の中で、何を食べ、何を飲み、何を着ようか、と思い悩む市井の人々です。当時イエスさまの福音に喜んで耳を傾けた人々は、貧しく、権力者から虐げられ、罪人として社会の隅に追いやられていた人たちでしたから、思い悩みに事欠くことはありませんでした。人々は、本当に身も心も思い悩んでいたのです。

 そのように思い悩める人々を前にして、イエスさまは叱責されたわけではありません。自分の思い悩みにとらわれて視線が定まっていない人々に対して、空の鳥を見よ!野の花を見よ!神が創られたありとあらゆる被造物を見よ!と促されたのです。彼らは人間のように種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないのに、神は美しく装い養ってくださるではないか!と。

 この御言葉によって、イエスさまと一緒に山上までやって来た人々はハタと気がつくわけです。足元で咲き誇っている名も無い草花に、頭上でさえずっている鳥たちの声に。彼らの美しさと、たくましさに。神から与えられた命を懸命に使って、はばたき、咲き誇っている彼らに。

 私も最近山登りをするようになって、この御言葉が実感できるようになりました。神が創られた素晴らしい被造物にあふれた山に登っていると、自分が悩んでいたことは実はたいしたことではなかった…と、気付かされることがあります。然り、思い悩みをことさらに大きくしていたのは、他ならぬ自分自身だったのだ、と。

 とはいえ、私たちの思い悩みには思いがけず外から降り掛かってくる出来事もあります。自分の願いに反して押し寄せてくる社会的な状況もあります。はからずもそれらに遭遇してしまった時に、私たちはまた思い悩むことになります。私の目下の思い悩みは、先日、政権与党の強引なやり方によって成立してしまった「共謀罪」です。人の内心にまで踏み込もうとするあの法案は、個人の尊厳を奪うだけでなく、人と人との信頼関係も損なってしまうでしょう。今でさえ自分の意思を押し殺して相手の顔色を伺う忖度がまかり通っているのに、もっと物が言えない社会が到来してしまうのではないかと危惧します。

 イエスさまは、このような思い悩みまでを一笑に付されたのでしょうか?そんなことはないでしょう。当時ユダヤ社会の権力者であった祭司長、長老、ファリサイ派たちと常に激論を交わし、彼らによって抑圧されていた人々のために福音を語られたイエスさまでした。人々の思い悩みに耳を傾け、彼らが負っている悲しみや苦しみをつぶさになめられ、最後にはご自身の身に担われたイエスさまでした。だから、イエスさまは言われたのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と。あなたがたの思い悩みもその解決のために必要なものも、神はすべてご存じなのだ!だからまず、神の御言葉に耳を傾けなさい!神のご支配がこの世に広がり、神の義がこの世に実現するように祈り求めなさい!そうすれば、すべてのものはみな与えられる!と。

 私たちは、思い悩みに押しつぶされてしまってはなりません。なぜなら、私たちの思い悩みのすべてを神はご存じで、私たちに必要なすべてのものを神は与えてくださるからです。だとすれば、私たちはむしろ大いに思い悩みましょう。自分にも、他者にも、この社会、この国、この世界に対して思い悩みましょう。そして、それらの思い悩みを分かち合うのです。自分の内に隠すことなく、他人に忖度することもなく、共に思い悩みを分かち合うのです。そうして、それらすべての思い悩みを神に伝える。私たちに必要なすべてのことをご存じの神に伝え、訴え、祈りましょう。イエス・キリストの御名によって。
 日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師 日笠山吉之

「信じる人の基準」


 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9・9~13)
 「自分の好きな単語と、嫌いな単語を一つずつ挙げるなら何ですか?」ある有名な人がこう質問される場面を見ながら、面白い質問だなと思い、自分なら何と答えるだろうと考えたことがありました。
 好きな単語はいくつも候補が思い浮かびましたが、自分が嫌いな単語は意外とすぐに絞られました。私の中では「先入観」もしくは「偏見」がそれです。
外国での生活がそう思う原因なのか、先入観や偏見に苦しんだことがあったのか、あるいは先入観が自分の成長を妨げると感じたのか、とにかく私は「先入観」という概念を嫌う一人でした。しかし自分ではそう思うものの、私もある種の先入観に囚われている一人に過ぎないことも認めざるを得ません。厳密に考えれば考えるほど、そうです。

 私たちはこの世に生まれた瞬間から、ある人種、ある民族、ある国に属する一人となりました。決してすべての世界を公平に見渡すことは出来ず(一生出来ないかもしれない)、限定された地域、社会、文化の下で、さらに自分が誰と触れ合って、どういう教育を受け、どういう価値観と情報に影響されたかによって、自分のアイデンティティや自分の考えを持つようになります。

 その意味で、私たちが世界や他者を見つめる場合、その殆どは自分が置かれた立場からそれらを見つめることであって、自分以外の視点から物事を考えることはなかなか難しいことかと思います。だから私たちは自分を超えた視点として神を求めているのかもしれません。
 
 私はマタイ福音書9章の記録を、神から遣わされたイエスが世の人々の思い込みを引っ繰り返す物語として読みます。

 その時代や場面では周囲から優れた人間として見られ、自分たちもそう自覚していたファリサイ派の人々、そしてその真逆に、人々から軽蔑される立場として徴税人や罪人と呼ばれていた人がいました。本当は彼らがどのような原因で悪者とされていたのか、なぜ悪者なのか説明がつかないのが、この世の現実かもしれません。

 その中で、イエスは敢えて罪人と呼ばれる人々の方に行かれ、彼らを招き、彼らの友となります。それがイエスを通してこの世界に示された神のみ心であり、憐みです。しかしその姿を見ていたファリサイ派の人々は理解できず、イエスを受け入れられません。彼らの基準では、徴税人や罪人が悪いのは当然であり、その徴税人や罪人と一緒にいるイエスも、彼らにとっては優れた先生ではなく、疑わしい存在なのです。その基準は、神の名を借りているけれども彼ら自身であり、あくまでも正しいのは自分たちだからです。 

 私たちに届いている福音は、一時の限られた人々の判断ではないからこそ、私たちに普遍的な、不変の光を与えます。そしてそれが人間によるものではなく、神からのものであるからこそ、私たちには赦しであり、世にあって私たちを縛るものではなく、自由をもたらすものとなります。

 神を信じるとは、まさに人知を超えている自由な神のみ心と導きに私たちを任せることです。場合によっては自分が担っていた自分の思い、世の事情がつくりあげてきた思いなどを降ろさなければならないでしょう。神の思いは私たちのそれをはるかに超えていて、自由で、しかも憐みに満ちているからです。

 もしも今と違う立場に置かれるなら変わってしまうかもしれない自分の思い、あるいは時間が過ぎ、状況が変わったら今のままではないかもしれない世の様々な思い。私たちの心の基準となるものがどれなのかによって、私たちの命の姿も変わっていくことでしょう。

 「わたしに従いなさい」。あのとき徴税人マタイを呼ばれたイエスの招きと憐みは、み言葉と聖霊の働きを通して今の「私」にも、ひょっとしたら自分の思いで好きではない「あの人(たち)」にも届けられているものかもしれません。
 自分の思いではなく、神のみ心に生きる。別の意味での「信仰のみ」、新たな改革です。

ルーテル学院中学・高等学校 チャプレン 崔 大凡

2017年5月30日火曜日

説教「対話と協働をもたらす力」

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 (使徒言行録2・1〜11)

 使徒言行録2章に描かれる聖霊降臨は、教会の誕生の出来事と呼ばれることも少なくありません。主イエスが弟子たちを地上に残して天へと昇られた後、聖霊を受けた弟子達は、イエスが救い主キリストであることを世に宣べ伝えてゆくこととなります。

 しかしそれは客観的に考えるならば大変奇妙な展開であったと言わざるを得ないのではないでしょうか。なぜならば、彼らが宣べ伝えるイエスとは、仲間から見捨てられ処刑された世の中の敗北者でしかなかったからです。そしてこの弟子たちこそ、都を目指してイエスとやって来たものの、自分たちの期待通りにはならなかったイエスを見捨てた者たちでした。そればかりではなく、この後、都で始まった最初の教会は、まもなくして追い散らされてしまうのです。一体なぜ、生まれたばかりの教会は消滅してしまうことなく、その後も生き残り、広がり続けることが出来たのでしょうか。


 使徒言行録2章では、弟子たちの上に「炎のような舌」が現れ、一人一人の上にとどまると、聖霊に満たされ、口々に「ほかの国々の言葉」を話し始めます。原文では「舌」と「言葉」は同じ語が用いられていることから、この炎が弟子たちに様々な国の言葉で語らせる力だったということを、この物語は伝えています。9〜11節では、ユダヤの周辺の国々から、そしてさらにはローマからもやって来た者達までもが、その言葉を聞き驚いたことが語られています。


 言葉が通じないこと、それは相互に信頼を築くことを阻み、人と人とを分断する見えない壁の最たるものでありました。しかし見えない神の力である聖霊に満たされた弟子たちは、その見えない壁を乗り越えるのです。そしてまたそのために、全ての人が皆同じ一つの言葉を話すようになったのではなく、弟子たちが様々な国の言葉で語り始めたということはとても興味深い点であるように思うのです。


 聖霊を与えられた弟子たちは、見た目の上ではばらばらに語り始めます。それを内向きの視点で見るならば、分裂であり、調和が失われた状態であるように受け取られるかもしれません。けれども聖霊に満たされた彼らは、部屋の中には留まらず、外へ新しい世界へと押し出されてゆくのです。弟子たちが様々な国の言葉をが都において話し始めた時、内へ内へと向かっていた弟子たちは、外なる世界へと開かれることになるのです。そしてこれまで出会ったことのない人々と福音を分かち合うこと、社会の周縁へと追いやられた人々と喜びを分かち合うことへと押し出され、部屋の中から踏み出してゆくのです。それはまさに弟子たちの集団にとって決定的な転換点であり、教会の出発点となったのでした。 


 分裂のようにすら見えた様々な言葉を語る弟子たちの姿は、実は新しい命に生きる共同体が生まれたこと、そこから新しい時代が始まったことを表すものとなったのでした。この新しい共同体はやがてエルサレムから散らされてゆくことになります。しかし新しい命へと押し出された彼らは、散らされた先でまた福音の喜びを分かち合うために共に働くこととなるのでした。


 かつて弟子たちが新しい命へと押し出されて新しい時代が始まったことによって、今私たちの教会があります。かつて弟子たちに新しい命を与えた力は、今を生きる私たちをもまた、新しい時代、新しい命を生きさせる力でもあります。それは壁を乗り越え喜びを分かち合い、多様なあり方を通して共に働くことが出来る、まだ誰も知らない道へと私たちを導く力なのです。


 ルターの宗教改革から500年となる今、分断され傷けられた世界の中で共に働くために、教会の対話と協働とが大きな主題となっています。それはまだ誰も体験したことのない、新しい挑戦です。けれども、弟子たちを満たした聖霊によって今も私たちキリストの教会は支え導かれているのです。だからこそ今、対話と協働を作り出す、新しい時代へと歩みだしてゆきたいと思います。

日本福音ルーテル三鷹教会 牧師  李 明生

2017年4月29日土曜日

「天に昇られる時も」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き 、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(新約聖書ルカによる福音書24・50~51)

 主イエスの昇天の出来事を伝えるルカは、主が弟子たちをエルサレムから《ベタニアの辺りまで連れて行き》、《祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた》と記しています。ベタニアはエルサレムの東、約2・7㎞に位置し、オリーブ山の南東斜面にある小さな村です。ご存知、マルタ、マリア、ラザロの村です。主イエスは十字架にかかる前、エルサレムに通うのにここを拠点とされ、連日都に行かれても、わざわざいつもこの村に戻って泊まっておられます。そして昇天の場も、この村入り口辺りです。これは単なる偶然でしょうか。
 死海文書の発見は、都の東方にハンセン病患者を隔離するよう規定があったことを示しました。このベタニアがその隔離村であった可能性は極めて高いです。エルサレムから見て山に隠れる場所であり、マルコ14章にもこの村に《重い皮膚病の人シモンの家》があったことが記されていて、それを裏付けます。主イエスは地上を歩まれた時もそして天に昇られる時も、人々から疎外されまた虐げられている人たちの側にいつも心をおかれ、それを弟子たちに託されたと見ることができるのではないでしょうか。滝澤武人さん(『イエスの現場』世界思想社)や月本昭男さん(『目で見る聖書の時代』日本基督教団出版局)、他にも同じ見方の方々はあり、私もそのように受け止めています。

 すべての人は神に愛されています。しかし、最も助けの必要な人々は誰か。そのことを私たちは思い起こすよう、主イエスから託されています。聖書が隣人について私たちに告げる教えは、一日一善的な優しさではなく、「正義と公平」という言葉にも集約されるように、誰が最も悲惨な状況に追いやられているか。それを解放し、また虐げる悪のくびきを折るようにということが第一となっています。そしてさらに、あなたのパンを裂き与えということも、大切であると示されています(イザヤ58・6、7)。これは主が言われた「地の塩」「世の光」の教えおよび順序とも符号します。

 ルター先生の時代、神が私たちにくださった救いの真理が歪められてはならないということが、何よりも再確認されなければならない重要な事柄でした。しかしそれはもはや解決されています。今や、神の救いの恵みに捕えられ、その愛に押し出されて、私たちは隣人に仕えていくということが、共に声かけ合い大事な時代となっています。

 パンを必要としている人は隣人であり、追いはぎに襲われて倒れている人も隣人です。どちらも助けが必要です。しかし、人によって苦しみを与えられるほど辛いものはなく、さらに、苦しみを与える側が大きな権力であったりする場合、受ける者の苦痛は何重もの悲しみや孤独も加わり絶望的となります。神様からも人々からも教会の関わりが待たれるなか、最も手薄となっている領域です。たぶん反発を恐れてでしょうが、経費と共に、個人で負うには大変です。私が出会ったのは原発廃止を訴える立地住民や被曝労働者の声でしたが、震災後さらに新たな様相を増しています。苦しめられている人々との連帯が求められます。他にもいくつも同様な課題がありますが、深刻度と緊急度を考えることが必要でしょう。

 私たちの教会は、社会的な問題には無色透明であろうとする傾向があります。しかしそれはルター先生の願ったこととは違うと思います。ドイツの教会が第二次大戦後、その反省と検証をしました。隣人のため、社会をよりよくしようと努めていくことは、ルター先生も説く聖書の教えです。

 人間の世界で、絶対なものはありません。何がより望ましいことか、時代や状況によって選ぶ答えが違うこともあるでしょう。白黒つかないものも多いです。でもそれを、能動的に選んでいくことが私たちに許され、またその責任が問われています。現代のベタニア、主イエスが最も心をおかれている方々に、私たちも寄り添って歩んでいけるよう、祈っていきましょう。
      日本福音ルーテル稔台教会、津田沼教会 牧師 内藤新吾


「わが喜び、わが望み」

「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう。」(詩編23・6)

 ルーテル教会の仲間に加えていただき、ルーテル教会を通じて福音の何たるかに触れ、牧師としてそれを語ってきました。ついに、引退の日を迎えました。ただまだ道半ばという気分でいます。大した働きもない者でしたが、感謝の言葉としてこの文章を送ります。
 京都で法学の学徒でいたころ、岸井敏師の牧しておられた教会に導かれました。大学まで身をおいても、何か生きることの本質にまだ触れていないという気がしていたわが身にとって、それは狭き門より入るような感じでした。この世界に触れてみて、そして実際に生きてみて、感謝をしています。
 最後の説教として詩編23編を選びました。この詩人は、生涯の中で苦しいときを過ごしたことが多々あったのでしょう。「死の陰の谷を行くときも」と言い、「わたしを苦しめる者を前にしても」と言う。前途に光を見出せない日々を過ごしたこともあったのだろうか。しかし、この詩人は、「主」という神を、わが牧者として見出し得たときに、変貌をします。自分の生涯の喜びをただ一つ挙げるとすれば、「主」を「牧者(「羊飼い」と言っています)」として見出したことにあるというのです。 この詩人がそれまでどのような人生の模索をしてきたかは分かりませんが、「主」を命の導き手として信頼して生きていけると確信したことから湧き上がる喜びが、この詩全体を覆っています。
 わたしたちのそれぞれの人生には、喜びもあり苦悩もあり、山あり谷ありですが、特に先に希望を見出し得ないとき、「わが助けはいずかたより来るや」と煩悶したくもなります。しかし、「主」が導き手であることを確信できたとき、詩人は「わたしには何も欠けることがない」と言うのです。もうその時、この詩人には人の世にある、通常の憂いの陰はどこにもありません。
 この詩人も、人間として通常の生活をしているはずですから、それがないはずはないのですが、「主」に従う生活の喜びの中では、それは自分にはなんの陰でもないと言うのです。これはこの詩人の人生の実感だったでしょう。
 今日の人の世は、専門家となった社会人の世ですから、互いにエゴが渦巻き、エゴとエゴの衝突は絶えず起こります。現代のように能力主義がひどくなり、自己の権利を自分で主張していくことが強くなると、みんな時間に追われる社会になります。 教会にはそれに疲れた人が癒しを求めて集まることもしばしばです。みんな疲れているので、許し合うという教会の交わりの本質を構成している、「聖徒の交わり」が揺らぐことさえ出て来ます。正直受け止めきれなかったことも、しばしばであったことを告白しなければなりません。
 この詩人は、主を牧者として生き、主が共にいてくださったという確信において、「わたしには、(人生において)何も欠けることがな」かったと断言するのです。信仰者の日々の生活を、これ程に率直に感謝するこの詩人は、どんなに満ちたりた生涯を過ごしただろうか。
 23編は旧約の詩人ですが、新約ではイエス・キリストを「主」と呼ぶようになりました。十字架の死に至るまで、父なる神に従順であったナザレのイエスというお方を、使徒たちがそのように呼ぶようになったのです。 初代教会の人々の信仰の息吹が、この用語変化のなかに現れています。聖書とは、そのような信仰者の霊的息使いを読み取ることによってしか、わたしたちに語りかけて来てくれません。教義ではないのです。
 わたしがそのように聖書を読みとっているかというと、まだ道半ばですが、宗教改革500年祭とは宗教改革そのものに帰ることではなく、宗教改革を起こした初代教会の信仰者の霊的息使いを読み込むことにもあるのではないだろうか。初代教会の信仰の遺産が聖書ですから、それは「聖書のみ」ということでもありましょう。
      前日本福音ルーテル唐津教会・小城教会牧師  箱田清美

 詩人は、この詩を「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまる」と結びました。
 退職後何をしますか?とよく聞かれるのですが、この詩人の締めをもってそれへの応えとし、ルーテル教会で牧師として職にありましたことを、感謝して筆を置きます。

2017年3月10日金曜日

「憐れみを受け、恵みにあずかって、大胆に」

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり 保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練 に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(新約聖書ヘブライ人への手紙4・14~16)

召されている現場で、種々の事態を、何とかして冷静に受け止めようと立ち止まる、その時々に、幾度となく励まされている聖書箇所は数多くありますが、その一つがこのメッセージです。
 神学校を卒業し、按手礼を受けて牧師とされて赴任する時、育ててくださった先輩牧師や神学校教師たちが、「激励歓送 会」を設けてくださいました。その折に、「み言葉を取り次ぎ、語る使命を頂いたのだから、果たすためには、語る前にまず、あなたがみ言葉(聖書)を読むだ けでなく、じっくりと聴くことを大切にして欲しいな。」と助言くださいました。1971年でしたから、46年も前になります。以来、私なりに色んな取り組 みを続けています。
 その一つは、福音書の場合ですと、その記述に登場する人々のどの人に自分が該当するだろうかと思い巡らせることです。ここでは引用できない節数なので、どうぞ、お手元の聖書を実際に開いてみてください。マルコによる福音書9章14節以下です。
 登場するのは、群衆の中で「病気の子を持つ父親」、「イエス様の弟子たち」、それに「弟子たちと議論している律法学者 たち」がいます。弟子たちは人々に問いかけられ、子どもの病気に癒しを求められ、さらに、専門家である律法学者に議論を吹きかけられています。返答に詰ま り、散々な目に遭っています。そこには、イエス様はおられませんでした。
 神学校を出たての新米牧師の私にそっくりです。人生経験も、深い信仰体験もなく、聖書もよく分からないまま、教会に遣 わされて、何かにつけおろおろするばかりでした。イエス様が不在で働いている気持ちになっていたのかも知れません。まず、自分を弟子たちに当てはめて読ん でみました。
 そこへ、イエス様が戻って来られて、その場の事情をお知りになると、三つのことを言われました。①「なんと信仰のない 時代なのか。」 ②「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。」 ③「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」これらの言葉は誰に 向けられたのでしょう。そこにいたみんなにと考えてもいいし、「信仰のない時代」というのは、群衆と父親に対してだろう。「いつまでも共に」というのは弟 子たちに。「我慢しなければならないのか」というのは律法学者たちに向かってと読むと、分かるような気がします。
 私は、当初、不甲斐ない弟子たちに自分を当てはめていました。しかし、牧師として日々を重ねるうちに、いや、それだけ ではなくて、この病気の子を持つ父親でもあると気づかされていきました。「大祭司・イエスの憐れみ」を受けなければならない者であった父親は、まさしく、 「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)と叫ばなければならない私です。
 この箇所は、「大祭司の憐れみにお委ねします。大祭司の恵みにあずかって歩ませてください。」そう叫ばなければ前に進めない自分を見つめることのできた気のする福音書の箇所です。
 ありのままの私を見つめ、弱さに同情の眼差しを送り、知っていてくださる「大祭司・イエス様」の前に大胆に進み立ち、「主よ、憐れみたまえ。」と、心から告白して、恵みにあずかって、新しい日々を、新しくされたいのちで生かされていきましょう。
日本福音ルーテル西宮教会 牧師 市原正幸

「安心して水の上を歩く」

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まさ...