2017年8月31日木曜日

「安心して水の上を歩く」

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」  (マタイによる福音書14・22~33)     



 この夏、まるでSF小説のような警告が人類に向けて発せられた。「いずれ地球の気温は250度まで上昇し硫酸の雨が降る。地球温暖化は後戻りできない転換点に近づいている」。著名な理論物理学者スティーブン・ホーキング博士はそう指摘し、「第2の地球」となる他の惑星への移住を提案した。


 そう言えばもう30年近く前に、温室効果ガスに適切に対処しなければ、その行先は地球の金星化だというようなエッセイを読んだ。しかし、まだその頃は昨今のような暑さの高まりや気象の熾烈化はなかった。
 しかし、今は違う。確実に地球表面と地球全体の温度が連動してどんどん暑くなっていることが確認されたという調査結果がでた。1000年先と言わず100年先、いや10年先を思うだけで、なんだか目がくらむような気さえする。


 「人間の生というものには、たとえ原水爆で滅びるというように、ある時滅びるということがあっても、あるいは地球に寿命がくるということがあっても、確かな基礎があるんだということ、本当に実在する永遠の命の現れとして、人生というものはちゃんとあるんだということ、そういうことが事実なんですね。そういうことだから、水の上を歩くどころではないんです。・・・誤魔化さないで、自己欺瞞をやらないで、落ち着いて安らかな心で元気を失わないで暮すということは、これは本当に驚くべき奇跡と言っていいようなことですね。」
 この言葉は滝沢克己さんの『聖書を読む』の一節だ。主イエスが水の上を歩かれたこの聖書の箇所を引きながら、まったく神の愛の証しであるこの星で、人類が歴史を刻んでこられたのは、水の上を歩くどころではない奇跡であって、神の恵みそのものだという滝沢さんのこの言葉にはっとさせられる。


 この物語は、多くの場合、教会に関する教えとして語られてきたと言われる。古い教会の天上を見上げると、その梁は船底のようになっている。これは教会がこの世を行く舟であることを象徴している。「主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に行かせた」とあるように、主に招かれて、私たちは「舟」に乗り向こう岸へ向かう。向こう岸とは、この世界で主が私たちのために定められた目的地と言えるかもしれない。神の国と言っていいと思う。主のご命令ならば、きっと「向こう岸」に達すると確信していいのだが、ほどなく「舟」は逆風に襲われる。「逆風」は教会が忍耐強く戦い続けなければならない私たちの罪の現実、宣教のさまざまな困難、神に逆らう混沌の象徴と言えるだろう。


 弟子たちは主イエスからちょっと目を離すと、たちまち沈んでしまう。そして、主にもう一度助けられて、主に捕まえられて、やっと舟に乗った。主が舟に乗られると、嵐は静まった。主の教会は主イエスを置き去りにして、弟子たちが勝手に振る舞うとき、もはや平安な航海ができないという教えだと受け止めることができる。
 また、この物語は私たちを生涯を通して支え続けてくれるとのメッセージでもある。自然災害や事故のとき、病苦や死別、失意のとき、さまざまな人生の「逆風」が吹き荒れ、怒涛逆巻くとき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とのみ声に、私たちはどれほど励まされ続けることだろうか。私たちは土の塵で作られた。水の上では沈むというのが当然なのに、その私たちが沈みもせずに、こうして生かされているということは、恵み以外にはありえない。まるで水の上を歩くような奇跡なのではないか。


 神の愛の証であるこの星の自然破壊が進んでいるという。もう、待ったなしなのかもしれない。しかし、私たちは主の永遠の命という確かな拠りどころを持って、安心して水の上を歩かせていただいている。
日本福音ルーテル小田原教会、湯河原教会 牧師 岡村博雅

2017年8月3日木曜日

「すべてをご存じの方に」



「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ福音書6・31〜33)

イエスさまが山上で語られた説教です。ここでイエスさまは、何度も「思い悩むな」と言われます。イエスさまの説教を聞いていたのは弟子たちであり、また群衆でした。彼らは、みな思い悩む者たちです。日々の生活の中で、何を食べ、何を飲み、何を着ようか、と思い悩む市井の人々です。当時イエスさまの福音に喜んで耳を傾けた人々は、貧しく、権力者から虐げられ、罪人として社会の隅に追いやられていた人たちでしたから、思い悩みに事欠くことはありませんでした。人々は、本当に身も心も思い悩んでいたのです。

 そのように思い悩める人々を前にして、イエスさまは叱責されたわけではありません。自分の思い悩みにとらわれて視線が定まっていない人々に対して、空の鳥を見よ!野の花を見よ!神が創られたありとあらゆる被造物を見よ!と促されたのです。彼らは人間のように種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないのに、神は美しく装い養ってくださるではないか!と。

 この御言葉によって、イエスさまと一緒に山上までやって来た人々はハタと気がつくわけです。足元で咲き誇っている名も無い草花に、頭上でさえずっている鳥たちの声に。彼らの美しさと、たくましさに。神から与えられた命を懸命に使って、はばたき、咲き誇っている彼らに。

 私も最近山登りをするようになって、この御言葉が実感できるようになりました。神が創られた素晴らしい被造物にあふれた山に登っていると、自分が悩んでいたことは実はたいしたことではなかった…と、気付かされることがあります。然り、思い悩みをことさらに大きくしていたのは、他ならぬ自分自身だったのだ、と。

 とはいえ、私たちの思い悩みには思いがけず外から降り掛かってくる出来事もあります。自分の願いに反して押し寄せてくる社会的な状況もあります。はからずもそれらに遭遇してしまった時に、私たちはまた思い悩むことになります。私の目下の思い悩みは、先日、政権与党の強引なやり方によって成立してしまった「共謀罪」です。人の内心にまで踏み込もうとするあの法案は、個人の尊厳を奪うだけでなく、人と人との信頼関係も損なってしまうでしょう。今でさえ自分の意思を押し殺して相手の顔色を伺う忖度がまかり通っているのに、もっと物が言えない社会が到来してしまうのではないかと危惧します。

 イエスさまは、このような思い悩みまでを一笑に付されたのでしょうか?そんなことはないでしょう。当時ユダヤ社会の権力者であった祭司長、長老、ファリサイ派たちと常に激論を交わし、彼らによって抑圧されていた人々のために福音を語られたイエスさまでした。人々の思い悩みに耳を傾け、彼らが負っている悲しみや苦しみをつぶさになめられ、最後にはご自身の身に担われたイエスさまでした。だから、イエスさまは言われたのです。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」と。あなたがたの思い悩みもその解決のために必要なものも、神はすべてご存じなのだ!だからまず、神の御言葉に耳を傾けなさい!神のご支配がこの世に広がり、神の義がこの世に実現するように祈り求めなさい!そうすれば、すべてのものはみな与えられる!と。

 私たちは、思い悩みに押しつぶされてしまってはなりません。なぜなら、私たちの思い悩みのすべてを神はご存じで、私たちに必要なすべてのものを神は与えてくださるからです。だとすれば、私たちはむしろ大いに思い悩みましょう。自分にも、他者にも、この社会、この国、この世界に対して思い悩みましょう。そして、それらの思い悩みを分かち合うのです。自分の内に隠すことなく、他人に忖度することもなく、共に思い悩みを分かち合うのです。そうして、それらすべての思い悩みを神に伝える。私たちに必要なすべてのことをご存じの神に伝え、訴え、祈りましょう。イエス・キリストの御名によって。
 日本福音ルーテル札幌教会・恵み野教会牧師 日笠山吉之

「信じる人の基準」


 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9・9~13)
 「自分の好きな単語と、嫌いな単語を一つずつ挙げるなら何ですか?」ある有名な人がこう質問される場面を見ながら、面白い質問だなと思い、自分なら何と答えるだろうと考えたことがありました。
 好きな単語はいくつも候補が思い浮かびましたが、自分が嫌いな単語は意外とすぐに絞られました。私の中では「先入観」もしくは「偏見」がそれです。
外国での生活がそう思う原因なのか、先入観や偏見に苦しんだことがあったのか、あるいは先入観が自分の成長を妨げると感じたのか、とにかく私は「先入観」という概念を嫌う一人でした。しかし自分ではそう思うものの、私もある種の先入観に囚われている一人に過ぎないことも認めざるを得ません。厳密に考えれば考えるほど、そうです。

 私たちはこの世に生まれた瞬間から、ある人種、ある民族、ある国に属する一人となりました。決してすべての世界を公平に見渡すことは出来ず(一生出来ないかもしれない)、限定された地域、社会、文化の下で、さらに自分が誰と触れ合って、どういう教育を受け、どういう価値観と情報に影響されたかによって、自分のアイデンティティや自分の考えを持つようになります。

 その意味で、私たちが世界や他者を見つめる場合、その殆どは自分が置かれた立場からそれらを見つめることであって、自分以外の視点から物事を考えることはなかなか難しいことかと思います。だから私たちは自分を超えた視点として神を求めているのかもしれません。
 
 私はマタイ福音書9章の記録を、神から遣わされたイエスが世の人々の思い込みを引っ繰り返す物語として読みます。

 その時代や場面では周囲から優れた人間として見られ、自分たちもそう自覚していたファリサイ派の人々、そしてその真逆に、人々から軽蔑される立場として徴税人や罪人と呼ばれていた人がいました。本当は彼らがどのような原因で悪者とされていたのか、なぜ悪者なのか説明がつかないのが、この世の現実かもしれません。

 その中で、イエスは敢えて罪人と呼ばれる人々の方に行かれ、彼らを招き、彼らの友となります。それがイエスを通してこの世界に示された神のみ心であり、憐みです。しかしその姿を見ていたファリサイ派の人々は理解できず、イエスを受け入れられません。彼らの基準では、徴税人や罪人が悪いのは当然であり、その徴税人や罪人と一緒にいるイエスも、彼らにとっては優れた先生ではなく、疑わしい存在なのです。その基準は、神の名を借りているけれども彼ら自身であり、あくまでも正しいのは自分たちだからです。 

 私たちに届いている福音は、一時の限られた人々の判断ではないからこそ、私たちに普遍的な、不変の光を与えます。そしてそれが人間によるものではなく、神からのものであるからこそ、私たちには赦しであり、世にあって私たちを縛るものではなく、自由をもたらすものとなります。

 神を信じるとは、まさに人知を超えている自由な神のみ心と導きに私たちを任せることです。場合によっては自分が担っていた自分の思い、世の事情がつくりあげてきた思いなどを降ろさなければならないでしょう。神の思いは私たちのそれをはるかに超えていて、自由で、しかも憐みに満ちているからです。

 もしも今と違う立場に置かれるなら変わってしまうかもしれない自分の思い、あるいは時間が過ぎ、状況が変わったら今のままではないかもしれない世の様々な思い。私たちの心の基準となるものがどれなのかによって、私たちの命の姿も変わっていくことでしょう。

 「わたしに従いなさい」。あのとき徴税人マタイを呼ばれたイエスの招きと憐みは、み言葉と聖霊の働きを通して今の「私」にも、ひょっとしたら自分の思いで好きではない「あの人(たち)」にも届けられているものかもしれません。
 自分の思いではなく、神のみ心に生きる。別の意味での「信仰のみ」、新たな改革です。

ルーテル学院中学・高等学校 チャプレン 崔 大凡

神によって変えられる

もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。」(ローマの信徒への手紙11・15〜16)   10月31日は何の日...